『鬼滅の刃』はどこが優れているのか ~残酷エンターテイメントとしての鬼滅の刃~

 この記事では鬼滅の刃を「バトル漫画」として捉え、主に既存のバトル漫画との比較を通して、その特徴を浮き彫りにさせていきたいと考えている。

 

 一つ注意点として、この記事は鬼滅の刃の持ち上げの持ち上げ記事ではないので、批判的に見える部分もあるかもしれない。そのため、鬼滅の刃の熱心なファンの方は注意をして欲しい。また、作品のネタバレも多分に含まれているが、それでも構わないという方は、続きを読んでいただきたい。

 

 筆者は、バトル漫画とは主に三つの要素があると考えている。

 それは「知」・「美」・「情」の三つだ。

 

 「知」……戦闘の駆け引きや攻略といった知略に関する要素。

 「美」……戦闘の派手さや見易さといった描写に関する要素。

 「情」……心情や絆といった情感に関する要素。

 

 この三つの要素から、バトル漫画の魅力は主に形成されているというのが筆者の考えだ。もちろん、ストーリーやキャラクターといった要素も魅力には関わっているが、それは漫画全体にいえる事であり、バトル漫画としての特性を浮き彫りにするためにここでは省く。

 

 分かりやすいように、各要素で優れた漫画の例を挙げていこう。

 

〇知――知略に優れた漫画

例:HUNTER×HUNTERジョジョの奇妙な冒険シリーズ

 

〇美――描写に優れた漫画

例:ドラゴンボールAKIRA

 

〇情――情感に優れた漫画

例:ONE PIECE金色のガッシュベル

 

※上記にあげた例は、他の要素も優れているバトル漫画も多いが、どの要素が突出しているかどうかという観点で選出している

 

 優れたバトル漫画というのは、この三要素をバランス良く高水準で満たしているか、どこかが突出している作品だろうと筆者は考えている。

 

 さて、鬼滅の刃をこの三要素から考えてみるとどうなるだろうか。

 

 まず、「知」に関しては、正直あまり水準が高いとは言い難い。知略に優れたバトル漫画は、敵との駆け引きを複数回行い、相手の裏の裏を読んだり、お互いに攻略をし合う。だが、鬼滅の刃の戦闘において、敵との読み合いや騙し合いといったものはあまり存在しない。

 また、敵の戦い方を分析して弱点を突く、地形や環境を利用する、といった攻略や作戦を練る事もあまりなく、あったとしても相手の隙を見つけて斬る、相手の攻撃をかわして斬るといったかなり簡単なやり方がほとんどだ。

 これは、鬼滅の刃では主人公側の鬼殺隊がほぼ全員剣士であり、攻撃の手段がほとんど斬撃であるというのが一つの要因だと思うが、それを差し引いてもあまり知略に秀でた漫画とは言えないだろう。

 

 では、「美」に関してはどうだろうか。筆者は絵に関してのプロという訳ではないのであくまで素人目線だが、コマの見易さや構図、技の派手さといった部分は中々優れた作品ではないかと考えている。

 たとえば、派手さという部分では、主人公側の鬼殺隊は剣士であってほぼ斬撃しか攻撃手段がないのは上述した通りだが、特殊な呼吸法によって身体能力を向上させていて、技を出す際には剣が炎や水をまとっているように漫画内では描写されている。

 これは、鬼滅の刃の作者である吾峠呼世晴氏の弁によれば、実際に剣から炎や水が出ている訳ではなく、傍目から見るとそのように炎や水が剣から出ているように感じられる、という心理的な描写であるそうだ。これによってただの斬撃ではなく、魔法を使って戦っているような派手さが戦闘描写に担保されている。

 ただ、炎や水といった自然現象を用いた戦闘描写自体は他のバトル漫画でも多く行われているものであり、鬼滅の刃が連載されていた週刊少年ジャンプの作品でもONE PIECENARUTOといった人気作でも見られるため、突出して派手な作品という訳ではない(アニメ版に関しては、ufotableという名うてのアニメ会社が制作を行っているため、漫画よりかなり派手になっている)。

 また、見易さや絵の美しさという点では、平均的なバトル漫画の水準は超えているように感じられるが、ドラゴンボールAKIRAといったずば抜けた画力がある作品には及ばないだろう。

 これに関しては、鬼滅の刃が大ヒットした事で忘れてしまいがちだが、作者の吾峠呼世晴氏にとって鬼滅の刃は連載デビュー作であり、読み切り掲載から数えても6年目というキャリア的にはまだ新人漫画家といっても過言ではない事は考慮すべきだが、全体的には「美」に関しては中の上といったところではないかと思われる。

 

 ならば、鬼滅の刃はどこが優れているのか。

 それは三要素の最後の「情」だ。鬼滅の刃の戦闘では毎回のように誰かの回想シーンが挿入され、キャラクターの人生が描写される。また、戦う相手と過去に因縁がある事も多い。

 そして、キャラクターが葛藤を乗り越えたり、敵の侮辱に激怒したり、誰かを守るために奮起したりと感情の大きな変化が起きてキャラクターが覚醒する事が、勝利の決め手になる展開が多い。

 つまり、読者の感情に訴えかけるシーンが多いのだ。特に哀しみや怒りといった負の感情が多く描写されている。これは鬼殺隊の面々のほとんどが親や兄弟、知り合いを鬼に殺された事がきっかけで入隊を志している事や、敵対する鬼自体も鬼舞辻無惨という鬼の始祖によって強制的に鬼とさせられた元人間という被害者の側面を持っている事が大きな要因だろう。

 その一方で、鬼殺隊の面々は10代から20代の若者で構成されており、鬼との戦闘以外では若者らしい無邪気さや明るさといった正の側面が描かれ、それが負の側面との大きなコントラストとなり、キャラクターの輝きを増している。鬼滅の刃は「情」に優れたバトル漫画だと言えるだろう。

 

 この「情」に関して、さらに深掘りをしていく。鬼滅の刃の特徴の一つとして、主要な登場キャラクターが手足や目を失うなどの重傷を負って戦闘不能になったり、さらには死に至る事が多い。

 キャラクターは漫画における大きな魅力の構成要素であり、作品内から退場させる事は通常あまり得策ではない。それは頻繁に戦闘を行うバトル漫画でも同様で、一度死んだキャラクターを何らかの方法で復活させたり、死んだと思わせて実は生きていた、というのはバトル漫画の典型的な展開だ。

 ただ、死によって大きな悲しみや怒りを表現する事は感情を動かすという点では大変に効果的な手法でもある。例えば、名作野球漫画のタッチや、最近リメイクされたテレビゲームのFF7では、作品内のキャラクターの死が読者やプレイヤーに大きな印象を残す事に成功し、今でも語り継がれる名作となっている。

 鬼滅の刃においては、主人公の属する鬼殺隊の頂点に柱と呼ばれる九人の剣士が存在していたが、漫画が完結した時点では9人中6人が死亡し、1人は重傷によって戦闘不能となっており、無事であるのはたった2人だけという有様で、次々に主要なキャラクターが退場していく。死んだ彼ら・彼女らは復活しないし、死んだと見せかけて生きていたという事もない。

 

 このような鬼滅の刃の過酷なストーリーは、一見するとハードで入りにくいようにも思えるが、実は日本人が昔から大好きな話の典型だと筆者は考えている。

 たとえば、歌舞伎や講談、映画の題材として古くから親しまれている忠臣蔵(赤穂事件)は、藩主である浅野内匠頭の仇討ちをするために赤穂の浪人から結成された赤穂四十七士が、幕府の裁定に背いてまで仇である吉良上野介に討ち入りをして吉良の首を取るが、結果として討ち入りに参加したほぼ全員である四十六人が切腹となる。

 このように現代の価値観からすると決してハッピーエンドとは言えない話ではあるが、己の命を賭してまで忠義のために行動する自己犠牲の精神が人々の心を打ち、歴史を超えて語り継がれる物語となっている。

 ほかにも、新撰組や神風特攻隊といった命を捨てて行動する自己犠牲の精神に溢れた話は現在でも創作の題材となるものが数多くある。ただ、ここで注意したいのは、残酷な話であれば全ていいという訳ではない。登場人物たちは己の信念や大義といったもののために行動し、その結果として死を迎える話であり、その残酷さは登場人物たちの高潔な精神を際立たせるためのスパイスのような役割なのだ。

 

 筆者は、こういった残酷さをスパイスとした娯楽を、「残酷エンターテイメント」という一つのジャンルだと考えている。その最たる例は甲子園だ。

 8月の猛暑に行われる全国高等学校野球選手権大会は、負けたら終わりのシングルイリミネーション方式のトーナメントで行われるため、なんとしても勝利をおさめようとエースピッチャーの連投による酷使が度々問題となるなど、時には選手生命を削ってまで試合に勝とうとひたむきに努力する球児たちの姿に人々が感動を覚えている。

 野球のレベルとしてはプロ野球メジャーリーグには当然劣る甲子園が、時に視聴率20%を超えるほどの注目を集めるのは、野球の技術ではなく一度負けたら終わりという過酷なトーナメントが生み出すドラマに人々が興味を惹かれているのは明らかだ。

 これは、知略に関してはあまり優れたバトル漫画とはいえない鬼滅の刃が、キャラクターが生死を賭けて戦う事で大きなドラマを生み出し、一億部を超える大人気作になっているのとよく似ている。つまり、鬼滅の刃は残酷エンターテイメントだと筆者は考えている。ちなみに、鬼滅の刃の第一話のタイトルはそのままずばり「残酷」だ。

 

 残酷エンターテイメントとしての鬼滅の刃をさらに考えるために、同じくキャラクターが生死を賭けて戦う残酷なストーリー展開で知られる人気漫画「進撃の巨人」との比較をしたい。

 巨人と呼ばれる大型の人型生物によって親を失った主人公エレン・イェーガーが、調査兵団という組織に所属して巨人という敵と戦う話は、一見すると非常に鬼滅の刃とよく似ている。だが、鬼滅の刃進撃の巨人とは大きな違いがあると筆者は考えている。それは、正義に関する部分だ。

 

 これ以降、進撃の巨人に関するネタバレが含まれるので、未読の方は注意していただきたい。

 では、話を進めよう。主人公のエレンが所属する調査兵団は、巨人が元々人間である事を知り、さらには自分たちの国を囲う壁の外にも人類が存在していることを知る。そして、壁の外の世界では、巨人になる力を持ったエルディア人が暴虐の限りを尽くしていたのだが、それをマーレ国が打ち破って平和を取り戻したという歴史が語られており、エレンたちは悪とされるエルディア人の生き残りである事が分かる。

 そして、侵略者だと思われていた巨人は、マーレ国によって送り込まれたマーレ側のエルディア人であり、エレンたちは同士討ちをずっと続けていたのだ。つまり、エレンたちは巨人から自分たちを守るための正義の戦いを続けていたと思っていたのだが、壁の外の世界ではエレンたちが悪であり、しかも敵だと思っていた巨人は自分と同じ存在だったという訳だ。

 この事によって、エレンたちの正義は絶対ではなく相対化される事となる。これは鬼滅の刃と大きく違う点だ。鬼滅の刃では、主人公が属する鬼殺隊の正義が揺らぐ事は一切なく、鬼舞辻無惨という鬼の首魁が絶対的な悪であり続ける。

 鬼滅の刃の非常にシンプルな善悪構造は、単純すぎると批判的に捉える者もいるかもしれないが、複雑なストーリーは読解力を要して人を選ぶのに対し、分かりやすい勧善懲悪はそれだけ間口が広いので利点ともなる。進撃の巨人における現代社会の政治状況を反映したような正義の相対化は、作品に深みを与えるが、その複雑さ故にカタルシスが減衰しているかもしれない。

 

 話は漫画からやや逸れるが、2016年のアメリカ大統領選挙で、当初は泡沫候補とも思われた傍若無人な実業家のドナルド・トランプが当選して大統領となった要因として、政治的・社会的な公正さを求めるポリティカル・コレクトネスに対する人々の疲弊(ポリコレ疲れ)が指摘されているように、他者に配慮してリベラルに行動をするのは精神的な負担となる。

 鬼滅の刃でも、初期には鬼との共生というテーマがキャラクターの台詞から度々語られていたが、中盤以降はほとんど触れられなくなったのは、結果として人気を拡大する上で大きなプラスになったのではないだろうか。

 娯楽にまで現実世界の複雑さを求めるのは面倒であり、鬼舞辻無惨という昔のRPGの魔王さながらの絶対的な悪と対決する正義の味方という分かりやすい勧善懲悪こそが、キャラクターの生命の輝きを魅力とする残酷エンターテイメントには適しているのだ。

  ここで一つ付け加えておくと、鬼を人間とは別の種族ではなく、鬼舞辻無惨によって強制的に変化をさせられた元人間という設定にした事によって、鬼滅の刃のシンプルな善悪構造に対して批判があまり出てこない構造になっている事は指摘しておこう。

 もし、鬼が人間とは別の種族であるならば、人を喰らう事は人が牛や豚を食べる事と同じような自然の摂理に沿った行動であり、鬼を倒すという行為に対して道義的な正当性を担保する事はやや難しくなっただろう。

 つまり、鬼の側にも正義があるのではないか、という見方が読者の脳裏に浮かんでしまう可能性がある。これを回避するためなのかは分からないが、鬼舞辻無惨を単なる鬼のボスではなく、すべての鬼の始祖という設定にし、鬼を人工的に作られた存在にしたのは、正義の相対化を防ぐ事にとても効果的だったと言えるだろう。

 

 まとめておこう。鬼滅の刃は、バトル漫画としては知略や描写ではなく、人々の感情を揺さぶる情感に優れていた。そして、キャラクターが己の生死をいとわずに大義のために戦うという日本人の大好きな残酷エンターテイメントであった。作品のシンプルな善悪構造によって間口も広くなっており、それ故に大きな人気を獲得した、というのが筆者の考えだ。

 

 最後にひとつ、ある妄想を書き記しておく。これは鬼滅の刃では決して描かれなかった物語である。

 鬼舞辻無惨によって鬼化された者の中には、主人公の炭治郎の妹である禰豆子のように、人を殺さずに暮らしていた者がいたかもしれない。彼ら・彼女らは薬によって人間に戻る事に成功した禰豆子と違い、鬼舞辻無惨が鬼殺隊に殺された事によって消滅してしまう。

 突然消えてしまった鬼たちと関わりがあった人間がいれば、嘆き悲しみ、何故人を殺さずに静かな暮らしをしていた鬼が消えてしまったのかと考える。そして、鬼殺隊という存在にたどり着くのだ。鬼殺隊は人々を悩ませていた鬼を滅ぼした英雄として語られているが、鬼と関わりのあった人間は鬼殺隊を許せず、何故鬼と共生する方法を模索しなかったのかと突きつける。

 大方の人間はその者の言葉を流すが、炭治郎は自分の行いが果たして本当に正義であったのか、疑問が生じてしまう。そして、彼に子供が出来た時、何の因果か鬼舞辻無惨によって植え付けられた鬼の細胞が子供に受け継がれてしまうのだ。生まれながらの鬼である炭治郎の子供は、禰豆子のように人間に戻す事もできず、炭治郎は鬼の子供と共生をしなければならなくなる。筆者としては、このような話を映画でぜひ観たい。